Posted at 2015.12.09 Category : 未分類
ちゅらさん「おばあ」役の平良とみさんの訃報に接し、先週末、千葉に行った折に佐倉の国立民族博物館の展示にはっとさせられました。展示パネルの文言は以下のとおり。
沖縄イメージの形成
青い海、白いビーチ、亜熱帯の植物、そして赤瓦の民家の風景。そこでくらす元気でやさしい「おじい」と「おばあ」。それらのイメージの形成は、沖縄返還(1972年)、沖縄国際海洋博覧会(1975年)を契機とする大規模なリゾート観光キャンペーンにおいてはじまり、沖縄出身のアーティストの活躍(1990年代)、沖縄の島々を舞台とするテレビドラマの流行(2000年代)などを通して定着した。
昨日のニュースも合わせて読むと出来過ぎで怖いくらいです。
「沖縄・宜野湾にディズニー誘致を」政府が協力を約束
2015年12月8日21時37分
米軍普天間飛行場がある沖縄県宜野湾市の佐喜真淳市長は8日、菅義偉官房長官と首相官邸で面会し、ホテルを備えた「ディズニーリゾート」の同市への誘致について政府の協力を求めた。菅氏は「ディズニーリゾートの誘致実現は非常に夢のある話。政府として全力で取り組んでいくことをお誓いしたい」と述べた。
沖縄イメージの形成についての経緯は多田治さんという方が詳しく分析してくださっています。
第7章 海洋博から沖縄キャンペーンへ
―沖縄の観光リゾート化のプロセス―
ところが 60 年代に入ると、この状況が変わり始める。きっかけは 59 年 6 月、日本政府 が他の外国に先駆けて、沖縄渡航の制限を大幅に緩和したことであった。これは、58 年に 沖縄の通貨が B 円からドルに切り替えられ、沖縄がドル経済圏に入ったことに対応したも のであった。この変化に対して早速、旅行代理店が動き始めた。翌 60 年 1 月、日本交通 公社・京都駅前案内所が、戦後初の「沖縄訪問団」86 名を送り込んだのである。この団体旅行の主目的はあくまで「沖縄戦没者の慰霊」とされ、ビザ申請の理由にも書かれた。
当時、昭和 30 年代の時点で、本土からの沖縄に対するまなざしは、美的な<観光のま なざし>へと純粋化してしまうには、まだ程遠いものであった。それはまた、沖縄が純粋 に「観光」をテーマ化して売り出すにはまだ難しい状況にあったことをも、同時に意味し ている。このツアーの参加者には、親類を沖縄戦で失った人も多数いた。だから、彼らは あくまで「訪問団」を名乗り、決して「観光団」とは言わなかった。とはいえ、いざ沖縄 に来てみると、沖縄サイドからは熱烈な歓迎を受け、実質的には「観光団」としてのもて なしを受けるような形になってもいたのである。こうしたことからは、戦後沖縄観光の導 入時の、「観光」をめぐる微妙なためらいと揺れがうかがえる。
こういうことはインドネシアのバリ島でも当てはまりますし、何も全てをけしからんというつもりは毛頭ありません。沖縄でリゾードを楽しむのはいいでしょう。江戸時代のお伊勢参りだって、どこまで信仰心からのものか、今の観光気分とどう違うのか、判断するのは難しいでしょう。しかし、こういうのを「何億年続く〜〜」のように固定化して捉えてしまうのではなく、歴史的に相対化して受け止められる姿勢をどこかに持っておきたいものです。
沖縄イメージの形成
青い海、白いビーチ、亜熱帯の植物、そして赤瓦の民家の風景。そこでくらす元気でやさしい「おじい」と「おばあ」。それらのイメージの形成は、沖縄返還(1972年)、沖縄国際海洋博覧会(1975年)を契機とする大規模なリゾート観光キャンペーンにおいてはじまり、沖縄出身のアーティストの活躍(1990年代)、沖縄の島々を舞台とするテレビドラマの流行(2000年代)などを通して定着した。
昨日のニュースも合わせて読むと出来過ぎで怖いくらいです。
「沖縄・宜野湾にディズニー誘致を」政府が協力を約束
2015年12月8日21時37分
米軍普天間飛行場がある沖縄県宜野湾市の佐喜真淳市長は8日、菅義偉官房長官と首相官邸で面会し、ホテルを備えた「ディズニーリゾート」の同市への誘致について政府の協力を求めた。菅氏は「ディズニーリゾートの誘致実現は非常に夢のある話。政府として全力で取り組んでいくことをお誓いしたい」と述べた。
沖縄イメージの形成についての経緯は多田治さんという方が詳しく分析してくださっています。
第7章 海洋博から沖縄キャンペーンへ
―沖縄の観光リゾート化のプロセス―
ところが 60 年代に入ると、この状況が変わり始める。きっかけは 59 年 6 月、日本政府 が他の外国に先駆けて、沖縄渡航の制限を大幅に緩和したことであった。これは、58 年に 沖縄の通貨が B 円からドルに切り替えられ、沖縄がドル経済圏に入ったことに対応したも のであった。この変化に対して早速、旅行代理店が動き始めた。翌 60 年 1 月、日本交通 公社・京都駅前案内所が、戦後初の「沖縄訪問団」86 名を送り込んだのである。この団体旅行の主目的はあくまで「沖縄戦没者の慰霊」とされ、ビザ申請の理由にも書かれた。
当時、昭和 30 年代の時点で、本土からの沖縄に対するまなざしは、美的な<観光のま なざし>へと純粋化してしまうには、まだ程遠いものであった。それはまた、沖縄が純粋 に「観光」をテーマ化して売り出すにはまだ難しい状況にあったことをも、同時に意味し ている。このツアーの参加者には、親類を沖縄戦で失った人も多数いた。だから、彼らは あくまで「訪問団」を名乗り、決して「観光団」とは言わなかった。とはいえ、いざ沖縄 に来てみると、沖縄サイドからは熱烈な歓迎を受け、実質的には「観光団」としてのもて なしを受けるような形になってもいたのである。こうしたことからは、戦後沖縄観光の導 入時の、「観光」をめぐる微妙なためらいと揺れがうかがえる。
こういうことはインドネシアのバリ島でも当てはまりますし、何も全てをけしからんというつもりは毛頭ありません。沖縄でリゾードを楽しむのはいいでしょう。江戸時代のお伊勢参りだって、どこまで信仰心からのものか、今の観光気分とどう違うのか、判断するのは難しいでしょう。しかし、こういうのを「何億年続く〜〜」のように固定化して捉えてしまうのではなく、歴史的に相対化して受け止められる姿勢をどこかに持っておきたいものです。
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