Posted at 2016.06.15 Category : 未分類
「高齢者福祉」「都市外交」など、きれいごとをならべて私利私欲を満たすだけだったのかと腹立たしいです。しかも此の期に及んで「おえつを漏らして”続投”を意向」とか。。。
あくまで「英語学習」という観点で見た場合ですが、ここまで恥も外聞もなくがめつく取り組めているか、自分を省みると彼の足元に及ばない自分がいます。英語をマスターすると心に決めた人にとって、なんでもアリの舛添氏こそが目指すべき姿勢ではないでしょうか。
前のブログで何度か取り上げた関口存男さんを思い出すのです。
「語学をやる覚悟」関口存男
△本当に語学を物にしようと思ったら、ある種の悲壮な決心を固めなくっちゃあ到底駄目ですね。まず友達と絶交する、その次にはかかァの横っ面を張り飛ばす、その次には書斎の扉に鍵を掛ける。書斎の無い人は、心の扉に鍵を掛ける。その方が徹底します。
△意地が汚くなくっては駄目です。欲張っていなければ駄目です。うんと功利的出なければ。ユダヤ人が金をためるように。なるべく執念深く、しつこく、うるさく、汚く、諦め悪く、非常識に、きちがいじみて、滅茶苦茶に、がつがつと、居候が飯を食うように──兎に角しつこく、しつこく、しつこく。
△あっさりした気持ちを持った亡国的日本人なら其の辺にいくらだって転がっています。しかしそんなのは何人いたって仕様がない。ちっと『しつこい』のがいなければ。梃子でも動かないのが。諦めの悪いのが。往生際の悪いのが。がつがつした下品なのが。
△こういう事をいうと、頭っから反感を持つ人があるかも知れません。よろしい、反感をお持ちなさい、但し学問はおやめなさい。殊に語学は。(語学だけではないでしょう?)
△たとえば、こどもが御飯をたべるのを見ていて御覧なさい。傾向が二つあります。ある種の子供は、好きなおかずだけ先に食べてしまって、あとをお茶漬けにして、いい加減にすましてしまいます。ところが、十人に一人位は、すきなおかずだけそっと横へ取っておいて、まず不味い方のおかずから食べ始めるのがある。──こういう風なのは、それを側で見ていると、心根が陋劣で、乞食のようで、とても正視できない。ところが、こういう風なのが尊いのです。学者になるメンタルテストだったら、私は此の方を採用したいと思いますね。学者ばかりとは限りません。
△意地は汚いほど宜しい、諦めは悪いほど結構、凝り性で,業欲で、因業で、頑瞑で、意地っ張りで、人に負けるのが大嫌いで、野心家で、下品で、つきあい憎くて、可愛げが無くて、『こんな奴と同居したらさぞ面白くなかろう』といったような性格……私はそんなのを尊びます。こういう一面を持とうと欲しない人は、本当に勉強はよしたが好い。殊に語学は。殊にドイツ語は。
△勿論人に好かれない事は覚悟の前でなければなりませんよ。人に好かれてどうなるものですか。人にだけは好かれない方がよろしい。そんな了見だけは決して起こす可らずです。余計なことですからね。『人に好かれる』なんて、人に好かれるような暇があったら、その暇にしなければならない事はいくらでもあります。
△今日の社会は(今日の社会に限りませんが)決して価値ある個人を欲してはいません。だから、社会の欲する無価値な人間になるか、社会の欲せざる価値ある人間になるか、問題は此処です。
△世間はどんな人間を好むか?『つきあい好い』人間を好みます。つまり、一緒にお茶でも飲めるような人間をですね。一緒にお茶が飲めなくちゃ仕様がありませんからねえ!
△ところでさて、世間様とご一緒にお茶を飲むためには、やはり、世間様とご一緒にお茶を飲むような人間である事が必要です。そうでない人間は何処かこう煙たくて、しんみりしませんからねえ。頭の中にお茶話以上の考えを持っている人間なんてのは、どう見ても人に好かれる方の型ではありません。努力しつつある人間なんてのは、まったく興ざめですからね。座が白けますからね。
△世間はそんなものです。そういう世間の真っ只中にあって、殊にドイツ語でも一つ叩き上げようという時には、実際一つの悲壮なる決心が必要です。
△ドイツ語も、今日では、もはや数年前のある種の過渡期を通過して、今はもう殆ど英語と同じほど一般的になってきました。ちょっと噛ったからといって、それでもう一かどドイツ語を心得たような顔のできる時代は、もうちょっと過ぎ去ったといっても好いのではありますまいか。
△『俺は勿論語学者なんぞに成ろうとは夢にも思わない、俺にはもっと高尚な対象がある、その単なる手段として語学をやるのだ』──そんなやり方では到底駄目です。
△要するに、そんな言い草は通用しません。『ちょっとやって見る』とか、『手段としてやる』なんてやり方はありません。『やる』以上は『やる』。やるに二つはありません。
△およそ時間の上から考えても、エネルギーの損失の上から考えても、また自己教養の立場から考えても、そう大して深入りするつもりでも無い物を、ちょっとした興味でやって見るほど馬鹿馬鹿しい努力はありません。ちょっとやって見るための対象としては、ドイツ語なぞは恐らく最も不適当なものでしょう。
△乃木将軍の失敗談をご存知ですか?彼は旅順を強襲によって一息に乗っ取ろうとして失敗しました。沢山の人命を犠牲にしたのち、やっと『打算と忍耐と根本的な態度』とによって、じりじりと迫らなければ駄目だという所に気がついたのでした。
△ドイツ語は持久戦です。まず腰をおろして考えましょう。中腰の考えと、あぐらを組んだ上の考えとでは、考えがおのずから違って来ます。坑道を掘って敵塞の『下』に迫りましょう。大岩層に逢着したら、コツコツと、一片また一片と岩を崩して行きましょう。相手は岩ですよ。敵ではありません。敵だの勝利だのといったような事はもはや当分の間問題ではありません。それはもはや戦争ですらもありません。仕事です。涯しなき労作です。無限の穿掘です。試練です。凝視です。根くらべです。
△目標は無限の彼方にあります。そして鼻の先は岩です。そして岩の背後は岩です。そのまた背後も岩です。岩、岩、岩、岩、当分は岩です。
△掘りましょう!
(昭和六年六月「独逸語大講座」(全六巻)の第二巻附録)
わかっています。政治家として評価すればそんな態度ではダメなことは、社会人としても失格でしょう。でも、ことに英語学習を考えた場合にはここまでしなければある程度のところにはいけないと思うのです。
もちろん社会生活を真っ当に送っている人が安易に真似をしちゃいけないでしょうが、あの「意地汚さ」を英語学習に関しては持ちたいと改めて思ってしまいました。いや、思うだけではダメなのです。今からでも意地汚く英語に取り組まなくては。早速今週のNew Yorkerを読み始めます!
あくまで「英語学習」という観点で見た場合ですが、ここまで恥も外聞もなくがめつく取り組めているか、自分を省みると彼の足元に及ばない自分がいます。英語をマスターすると心に決めた人にとって、なんでもアリの舛添氏こそが目指すべき姿勢ではないでしょうか。
前のブログで何度か取り上げた関口存男さんを思い出すのです。
「語学をやる覚悟」関口存男
△本当に語学を物にしようと思ったら、ある種の悲壮な決心を固めなくっちゃあ到底駄目ですね。まず友達と絶交する、その次にはかかァの横っ面を張り飛ばす、その次には書斎の扉に鍵を掛ける。書斎の無い人は、心の扉に鍵を掛ける。その方が徹底します。
△意地が汚くなくっては駄目です。欲張っていなければ駄目です。うんと功利的出なければ。ユダヤ人が金をためるように。なるべく執念深く、しつこく、うるさく、汚く、諦め悪く、非常識に、きちがいじみて、滅茶苦茶に、がつがつと、居候が飯を食うように──兎に角しつこく、しつこく、しつこく。
△あっさりした気持ちを持った亡国的日本人なら其の辺にいくらだって転がっています。しかしそんなのは何人いたって仕様がない。ちっと『しつこい』のがいなければ。梃子でも動かないのが。諦めの悪いのが。往生際の悪いのが。がつがつした下品なのが。
△こういう事をいうと、頭っから反感を持つ人があるかも知れません。よろしい、反感をお持ちなさい、但し学問はおやめなさい。殊に語学は。(語学だけではないでしょう?)
△たとえば、こどもが御飯をたべるのを見ていて御覧なさい。傾向が二つあります。ある種の子供は、好きなおかずだけ先に食べてしまって、あとをお茶漬けにして、いい加減にすましてしまいます。ところが、十人に一人位は、すきなおかずだけそっと横へ取っておいて、まず不味い方のおかずから食べ始めるのがある。──こういう風なのは、それを側で見ていると、心根が陋劣で、乞食のようで、とても正視できない。ところが、こういう風なのが尊いのです。学者になるメンタルテストだったら、私は此の方を採用したいと思いますね。学者ばかりとは限りません。
△意地は汚いほど宜しい、諦めは悪いほど結構、凝り性で,業欲で、因業で、頑瞑で、意地っ張りで、人に負けるのが大嫌いで、野心家で、下品で、つきあい憎くて、可愛げが無くて、『こんな奴と同居したらさぞ面白くなかろう』といったような性格……私はそんなのを尊びます。こういう一面を持とうと欲しない人は、本当に勉強はよしたが好い。殊に語学は。殊にドイツ語は。
△勿論人に好かれない事は覚悟の前でなければなりませんよ。人に好かれてどうなるものですか。人にだけは好かれない方がよろしい。そんな了見だけは決して起こす可らずです。余計なことですからね。『人に好かれる』なんて、人に好かれるような暇があったら、その暇にしなければならない事はいくらでもあります。
△今日の社会は(今日の社会に限りませんが)決して価値ある個人を欲してはいません。だから、社会の欲する無価値な人間になるか、社会の欲せざる価値ある人間になるか、問題は此処です。
△世間はどんな人間を好むか?『つきあい好い』人間を好みます。つまり、一緒にお茶でも飲めるような人間をですね。一緒にお茶が飲めなくちゃ仕様がありませんからねえ!
△ところでさて、世間様とご一緒にお茶を飲むためには、やはり、世間様とご一緒にお茶を飲むような人間である事が必要です。そうでない人間は何処かこう煙たくて、しんみりしませんからねえ。頭の中にお茶話以上の考えを持っている人間なんてのは、どう見ても人に好かれる方の型ではありません。努力しつつある人間なんてのは、まったく興ざめですからね。座が白けますからね。
△世間はそんなものです。そういう世間の真っ只中にあって、殊にドイツ語でも一つ叩き上げようという時には、実際一つの悲壮なる決心が必要です。
△ドイツ語も、今日では、もはや数年前のある種の過渡期を通過して、今はもう殆ど英語と同じほど一般的になってきました。ちょっと噛ったからといって、それでもう一かどドイツ語を心得たような顔のできる時代は、もうちょっと過ぎ去ったといっても好いのではありますまいか。
△『俺は勿論語学者なんぞに成ろうとは夢にも思わない、俺にはもっと高尚な対象がある、その単なる手段として語学をやるのだ』──そんなやり方では到底駄目です。
△要するに、そんな言い草は通用しません。『ちょっとやって見る』とか、『手段としてやる』なんてやり方はありません。『やる』以上は『やる』。やるに二つはありません。
△およそ時間の上から考えても、エネルギーの損失の上から考えても、また自己教養の立場から考えても、そう大して深入りするつもりでも無い物を、ちょっとした興味でやって見るほど馬鹿馬鹿しい努力はありません。ちょっとやって見るための対象としては、ドイツ語なぞは恐らく最も不適当なものでしょう。
△乃木将軍の失敗談をご存知ですか?彼は旅順を強襲によって一息に乗っ取ろうとして失敗しました。沢山の人命を犠牲にしたのち、やっと『打算と忍耐と根本的な態度』とによって、じりじりと迫らなければ駄目だという所に気がついたのでした。
△ドイツ語は持久戦です。まず腰をおろして考えましょう。中腰の考えと、あぐらを組んだ上の考えとでは、考えがおのずから違って来ます。坑道を掘って敵塞の『下』に迫りましょう。大岩層に逢着したら、コツコツと、一片また一片と岩を崩して行きましょう。相手は岩ですよ。敵ではありません。敵だの勝利だのといったような事はもはや当分の間問題ではありません。それはもはや戦争ですらもありません。仕事です。涯しなき労作です。無限の穿掘です。試練です。凝視です。根くらべです。
△目標は無限の彼方にあります。そして鼻の先は岩です。そして岩の背後は岩です。そのまた背後も岩です。岩、岩、岩、岩、当分は岩です。
△掘りましょう!
(昭和六年六月「独逸語大講座」(全六巻)の第二巻附録)
わかっています。政治家として評価すればそんな態度ではダメなことは、社会人としても失格でしょう。でも、ことに英語学習を考えた場合にはここまでしなければある程度のところにはいけないと思うのです。
もちろん社会生活を真っ当に送っている人が安易に真似をしちゃいけないでしょうが、あの「意地汚さ」を英語学習に関しては持ちたいと改めて思ってしまいました。いや、思うだけではダメなのです。今からでも意地汚く英語に取り組まなくては。早速今週のNew Yorkerを読み始めます!
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