Posted at 2013.07.29 Category : 読書報告
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以前ブログで取り上げたジャパンタイムズの記事をきっかけに上記の本を読みました。富士講という組織は昭和初期まで存続していて、関東大震災でも持ちこたえたが、東京大空襲で人の移動が起き、高度成長期で町並みも変わり富士講組織も四散していったと説明があったりして、非常に勉強になります。あと、東京にはこんな富士塚があったのかと改めて驚いています。
その中で個人的に一番驚いたのが、世界遺産として富士山−信仰の対象と芸術の源泉(Fujisan, sacred place and source of artistic inspiration)にも選ばれている富士五湖という名称は富士急の社長が考案したというもの。悪く言えば客寄せの観光キャッチフレーズとして作られたものだったという事実です。ウィキペディアにもその点はしっかり載っています。
(ウィキペディア)
富士五湖(ふじごこ)は、山梨県側の富士山麓に位置する5つの湖の総称。下記の5つの湖をさす。堀内良平(富士急の創設者)によって命名された。
名前の由来
1927年(昭和2年)、東京日日、大阪毎日新聞(現毎日新聞)は、鉄道省後援で「日本新八景」選定のため国民の葉書投票を企画した。部門は湖沼・河川・温泉・山岳等八部門、富士北麓の各湖はそれぞれの名前で湖沼の部に投票をはじめていた。然しバラバラ投票では効果が上がらなかった。
「富士五湖」の総称は江戸時代の文献には見られず、『富士山麓史』によれば「この時、堀内良平の胸にひらめいたのが『富士五湖』の名であった。(略)良平は新聞社に行き『富士五湖』の新名称で投票することの了解を取るとともに、自社の株主に一株一枚の投票を呼びかけた。締め切りまでに富士五湖に寄せられた票は360万票、湖沼の部日本一となった」とある。審査の結果「富士五湖」は「日本二十五勝」に選定された。
ちょうど富士急が開業したばかりの頃ですから、お客を呼び寄せる仕掛けが必要だったのでしょうか。
富士急の沿革(富士急HPから)
1926年9月18日、富士の霊峰を中心に富士山麓一帯を世界的観光地として大規模に開発するという構想のもとに、まず第一歩として交通機関を整備すべく、富士山麓電気鉄道株式会社を設立しました。翌年、御殿場~富士吉田~河口湖間及び大月~富士吉田間、富士吉田~河口湖~精進湖間の自動車営業を開始しました。
富士五湖というコンセプトが広まったため、富士八海というのはあまり聞かれなくなりました。琵琶湖や諏訪湖も入っているので逆に違和感を感じてしまうほどです。
何も商業主義として批判したいのではありません。われわれのライフスタイルはむしろそのような商業主義を基盤にしていますし、自分も大学のサークルのゴールデンウィークの合宿は富士五湖でやったりして思い出の土地です。電気も通り始め、鉄道網も完備され、という今の我々のライフスタイルの基盤は1900年はじめのようなんですね。
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